201804
Sunday
限りなく繰り返す数多くの喜びと悲しみが
歴史の隙間を埋めている
喪失し続ける現実を前に
一体身体は何を心に投影するのか
そして他者はそれをどう自らの精神に留めるのか
生のリアルと言うのは死のリアルでしかない
身体が死に近づくと言うのは
世界に接続しているプラグを1本ずつ抜いて行くようなもの
その度に様々な感受性や感覚が閉じて行く
死に近づきつつ 生のリアルは失われるのかもしれない
同時に死のリアルも失われるのかもしれない
立って 歩いて 食って 考える
繰り返せ
毎日生と死を繰り返せ
201710
Sunday
どこへ行ったのだろう?
何かに形を変えた所為で解らなくなったのかだろうか?
この世界からすっかり消え失せたのだろうか?
それとも時間に流され尽くしたのだろうか?
そして、またどこかで出会う事があるのだろうか?
201707
Wednesday
お金の次に何が僕らの社会の抽象性をあげる価値になのか
或は
その手段とする事ができるのかと言う事だろう
エネルギーとか想像力とかそう言う次元ものではなく
もっと新しくて具体的なものが
それを可能にする
それは既にすこしずつ姿をあらわしている
とても近くにあって便利なもので
今の我々にとって危険なものだ
そしてきっと10年以内にゲーテが書いた『ファウスト』のように
比喩的に新たな世界として表現される事になるだろう
201707
Friday
模索や関心が
一つの繋がりを持って
関係しはじめる
生きる事が
そのまま
抽象化され
形を持ちはじめる
つくると言う事は
限りなく
思い出すと言う事に
似ていると思う
そして
それは
ある程度の時間が必要な事で
きっと過ぎ去った時間の山を経て贈られる
ものがあるのだろうと思う
201704
Saturday
まったく違う春の風が
世界に吹いている
僕にも吹いている
色彩は変化し
重さも変化し
結果として絶対にないはずのことが起こる
世界の約束がそうであるように
個人の約束もそうであるように
変わらないのは
風の音だけなんだろう
201703
Monday
変わらない感情は
まるでタイムカプセルに入っているかのように
置き去りになる
開けてみた所で
ひとりよがるだけのことだとわかっている
それでも
せむすべもなく眺めてしまう事がある
201703
Tuesday
身体全体を通して音楽が出てきているからなんだろうなぁ。
ヘッドフォンではわからなかったけど
スピーカーについないだら
なんか届く。。。身体に。。。
201609
Tuesday
滞在して1ヶ月近くになる。
今日は随分涼しいというかむしろ寒いくらい。
一雨ごとにどんどん季節が変わって行く様は本のページをめくるようだ。
秋の足音と言うのはこの雨の音の事なのだろう。
いや、もの静かな秋はそんなに足音は大きくないはず。
だからこれは秋の足音ではなく
夏が去る足音のように思える。
だから少し寂しい気分になる。
僕の故郷はこの山形なのだが
こうして自分中心に長い期間帰って来てみると
これまでとは少し異なったものを思い出す。
と言うのは、
18歳で山形を離れてからの方が長くなった訳だが
それ以来帰省で知る山形は、変化する部分で
それは自分の記憶が消されていくような
自分の知らない街になるような不安があった。
けれども、夏から秋にかけて過ごすと感じることができる
この季節の変化のスピードに
あぁ、子供の頃もこうだったなと
漸く変わらないものと出会う事になるものなのだ。
故にこの少し寂しい秋の(そして夏の)足音は
ほのかな再会の喜びでもある