2017/08

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お金の次に何を僕らの社会の抽象性をあげる価値になのか

或は

その手段とする事ができるのかと言う事だろう


 

エネルギーとか想像力とかそう言うものじゃなく

もっと新しくて具体的なものが

それを可能にする

 

 

それは既にすこしずつ姿をあらわしている

 

とても近くにあって便利なもので

今の我々にとって危険なものだ

 

そしてきっと10年以内にゲーテが書いた『ファウスト』のように

比喩的に表現される事になるだろう


模索や関心が

一つの繋がりを持って

関係しはじめる

 

生きる事が

そのまま

抽象化され

形を持ちはじめる

 

つくると言う事は

限りなく

思い出すと言う事に

似ていると思う

 

そして

それは

ある程度の時間が必要な事で

きっと過ぎ去った時間の山を経て贈られる

ものがあるのだろうと思う


忘れたい事があるなら

そんなの普通だと

思えば

案外簡単な事なんだろう


違うと言う事を

確認しても

何の意味もないのだろう

 

 

変わっていないと言う事は

そう言う事なのかもしれない


まったく違う春の風が

世界に吹いている

僕にも吹いている

 

色彩は変化し

重さも変化し

結果として絶対にないはずのことが起こる

 

 

世界の約束がそうであるように

個人の約束もそうであるように

 

 

 

変わらないのは

風の音だけなんだろう

 


変わらない感情は

まるでタイムカプセルに入っているかのように

置き去りになる

 

開けてみた所で

ひとりよがるだけのことだとわかっている

 

それでも

せむすべもなく眺めてしまう事がある

 


身体全体を通して音楽が出てきているからなんだろうなぁ。

ヘッドフォンではわからなかったけど

スピーカーについないだら

なんか届く。。。身体に。。。


滞在して1ヶ月近くになる。

 

今日は随分涼しいというかむしろ寒いくらい。

一雨ごとにどんどん季節が変わって行く様は本のページをめくるようだ。

秋の足音と言うのはこの雨の音の事なのだろう。

いや、もの静かな秋はそんなに足音は大きくないはず。

だからこれは秋の足音ではなく

夏が去る足音のように思える。

 

だから少し寂しい気分になる。

 

 

僕の故郷はこの山形なのだが

こうして自分中心に長い期間帰って来てみると

これまでとは少し異なったものを思い出す。

 

と言うのは、

18歳で山形を離れてからの方が長くなった訳だが

それ以来帰省で知る山形は、変化する部分で

それは自分の記憶が消されていくような

自分の知らない街になるような不安があった。

 

けれども、夏から秋にかけて過ごすと感じることができる

この季節の変化のスピードに

あぁ、子供の頃もこうだったなと

漸く変わらないものと出会う事になるものなのだ。

 

故にこの少し寂しい秋の(そして夏の)足音は

ほのかな再会の喜びでもある


絵ばかり描いていると

気が狂いそう。。。

 

アニメーションとは言え。

 

そしてまた録画ボタンを押し、鉛筆を握る。。。


作品の為の

新しい文章を書いたら

 

世界がとても広がって見える

 

 

言葉って、それ以上のなにものでもないけど

その存在は

目や耳や鼻と

同じくらい大切に思う。